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塩田開発

造る −坂出塩田の父通賢−

栄左衛門は、土木の分野でも深い知識をもっており、あわせて経済に対しても優れた才能を発揮した。

文化・文政期に入って悪化した藩財政の再建策のひとつとして藩に建白された坂出塩田の開発が高松九代藩主松平頼恕の英断によって採用され,文政9年(1826),栄左衛門は坂出塩田の開墾を任されることとなった.

栄左衛門は,塩田干拓施設や製塩施設の設計を自ら行い,またその費用や完成後の収支見込みの算出などまで行っており,栄左衛門の土木家・経世家としての知識と才能が注ぎこまれたのが坂出塩田の開発であった.

文政12年に干拓のための提普請が完了し,天宝3年(1832),西新開・東新開・江尻新開が完成した.国内有数の塩田である坂出塩田がここに誕生し,藩の財政再建に大きく寄与するところとなった.

栄左衛門の土木家としての活躍は,高松藩内にとどまらず,伊予別子立川銅山の水抜普請や遠江新居今切湊の改修計画など藩外においてもその才を発揮したのである.

栄左衛門の経済に対する的確な洞察力は,塩田開発を述べた建白書の中で,後に高松藩が政策として採用する砂糖の流通統制についても言及している点に表れている.

栄左衛門は,さまざまな分野において才能を発揮し活躍する一方,自らの家のことを顧みる余裕がなく,銃砲製作や塩田開発のために発生した負債が家計を圧迫し,困窮した晩年を迎えることとなり,そのまま,天保12年,生まれ故郷の馬宿において 62歳の生涯を閉じた.


(香川県歴史博物館編『久米栄左衛門〜創造と開発の生涯〜』(2002)p.79より抜粋)

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