浩二 やあ、洋子、この2人がだれだかわかるかい? 洋子 もちろん。そんなの簡単よ。コロンブスとマゼランでしょ。 ジョーンズ先生 じゃ、2人が何をしたのか、わかるかい? 浩二 ええ、わかりますとも。コロンブスは「新大陸」発見だし、マゼランは世界一周でしょ。2人は偉大な英雄です。 洋子 ええっ? 本当にそうかしら? 私には、ちょっと疑問があるの。2人は、先住民を騙したり、略奪したりしたと聞いたことがあるわ。 ジョーンズ先生 きみの言うことには一理あるね、洋子。じゃ、フィリピンの人々にとってマゼランの到着とは何だったのかを考えてみよう。
フィリピン諸島の中の小さな島マクタンでは、毎年4月27日にお祭りが開かれる。この祭りの見所は、「マクタン島の戦い」という歴史的事件を再現する野外劇である。世界的に有名な16世紀の航海者フェルディナンド・マゼランが、重要な役の一人として登場するが、主役ではない。主役はラプラプである。彼はフィリピン最初の国民的英雄と考えられている。 16世紀初頭までには、フィリピン諸島南部のセブ島、そこの中心的な港町セブ・シティは、すでに今日の中国、インドネシア、マレーシア、タイなどにあたる地域と活発な交易をおこなっていた。セブ島自体は、何人かの首長たちがとり仕切っていた。 セブ・シティには、ダトゥ・フマボンという名の首長がいた。このセブ・シティのすぐ沖に、マクタン島が浮かんでいたのだ。この島の北部は、首長の息子ラプラプが治めていた。 この地域へ、1521年4月はじめ、マゼランが3隻の船を率いてやってきたのである。セブ・シティの港に入ると、マゼランは各船に投錨を命じ、威力を見せつけるべく大砲を発射させた。当時、外国船はすべて入港税を支払うことになっていた。ところがマゼランは、自分はスペイン国王にしか従わないから税は払わないとつっぱねた。その代わり、マゼランはフマボンと家来たちに、自分は敵としてではなく味方として来航したのだと告げた。また彼は、大砲を撃ったのは、この島の王に敬意を表するためだとも言った。これを聞いてフマボンはきげんをなおし、さっそくマゼランと部下たちを歓迎した。こうして双方のトップが仲よくなると、マゼランはたちまち首尾よくフマボンとその妻をキリスト教に改宗させてしまった。 一方、マクタン島では、ラプラプが、スペイン人たちが500人以上ものセブ島人らを難なくキリスト教に改宗させたことを聞きつけた。しかし彼はフマボンと違って、スペイン国王に忠誠を誓えという、マゼランのひっきりなしの要求を無視しつづけた。マゼランからスペイン国王の命令に従うようにいわれたとき、ラプラプはこう答えた。「私はどの王にも頭をさげる気はない。私が忠誠を誓う相手は、私の村の人間だけだ」。 マゼランは、そろそろラプラプをこらしめる時がきたと考えた。しかし傲慢にも彼は、フマボンや、これまたキリスト教徒に改宗していたほかの首長らに、助勢は無用と断ったのである。4月26日の真夜中、マゼランは自ら3隻の船を目と鼻の先のマクタン島へ向かわせた。ラプラプは、戦闘にそなえて1500名の村人たちを海岸線に配置し、敵の船を待ち受けた。 4月27日の朝3時、マゼランの船隊が沖合に姿を見せた。ラプラプは部下たちに言った。「身内に別れを告げろ。生きて帰れない者も出るだろうからな…」。 今日ではマゼラン湾と呼ばれている箇所へ着くと、マゼランは部下の一人に最後通告を持たせてよこした。ラプラプはふたたび、相手の条件をつっぱねた。彼はマゼランの部下に、帰ってマゼランに「とことん戦う覚悟でいる…」と伝えよと告げた。 こうして戦闘がはじまった。マゼラン以下60名いた部下のうち11名だけ船に残った。49名は浅瀬を横切りはじめた。引き潮だったので、船隊は海岸からかなりはなれて停泊していた。そのためスペイン人側は、するどくとがった珊瑚礁を渡り、おつぎは海中にはえる植物が幅広く繁茂している箇所を横切らないと、ラプラプの部隊と合戦できなかったのだ。 マゼランは、この戦は簡単だ、と考えていた。まさかこれが最後の戦闘になろうとは、思いもよらなかったのだ。アフリカやいろいろの土地で、幾多の戦闘で勝利をおさめてきていたのである。そのおれさまを相手にして、ラプラプのような野蛮人に何ができるというのか? しかしマゼランは、あまりにもラプラプを軽く見ていたのである。 一つには、重武装の49名にとって、マクタン島はまったくはじめての場所だった。土地の事情に通じた1500名もの敵を相手に、スペイン人側に何ができるというのか? もう一つは、引き潮で船隊が、いや船の大砲が、海岸から遠すぎて、砲弾が届かなかったことである。 マクタン島の戦闘は短かった。おそらく30分とは続かなかったのではないか。その決着は世界の歴史に記録されている。マゼランはラプラプに殺され、部下たちは船に逃げ帰ったのである。 マゼランは、東洋との交易ルート発見の任務を帯びてスペインを出発したときは、5隻の船隊に277名を乗り込ませていた。フィリピン諸島へたどり着くまでには、乗組員の多くが途中で命を落としており、いままたマクタン島の戦闘でもかなり死んだ。生き残った者たちは海賊におちぶれ、1522年の9月スペインに帰り着いたのはヴィクトリア号ただ1隻、乗組員の数はわずか18名になっていた。それでもヴィクトリア号一船の積み荷がもたらした利益は、失った5船の費用を補って余りがあったのである。スペインの貿易業者らはますます、東南アジアとの交易を求めた。 マクタン島の戦闘ではまさに完勝だったが、フィリピン人たちは長く独立を保つことはできなかった。スペイン人がまた戻ってきたのだ。そして16世紀後半には、フィリピン諸島はスペインの統治下に置かれていた。 4月27日を祝う祭りは、むかしから続いてきた伝統のあるものではない。つい1979年に始まり、以後毎年続けられてきているにすぎない。しかしこのドラマは、フィリピン側の視点を提供してくれるし、マゼランの世界周航の意味を考え直す機会を与えてくれるのである。
Lesson 7 二人三脚
洋子 「サービス・ドッグ」のこと聞いたことある? 浩二 いや、ないな。どういうことに使われる犬なの? どんなことをするの? 洋子 車椅子の人たちのために、いろんなことをするの。ドアを開けたり、明かりをつけたり。 佐藤先生 買い物もするわ。冷蔵庫からビールをとってくるのだっているのよ。
私は車椅子に乗って、2歳の「サービス・ドッグ」のフィリーと、キャンディの店に入る。いったん中へ入ると、私たちは狭い通路をゆっくりと見てまわる。車椅子から見ると、通路はいっそう狭くみえる。キャンディがいっぱいの棚は、まるで峡谷の岩壁みたいで、いまにも頭の上へくずれおちてきそうだ。 山積みされたジェリービーンの袋を見つけて、私は車椅子をとめた。そして「フィリー、あれ」と声をかける。フィリーがそちらを見たのを確かめてから、私は「あれをとって」と命令する。フィリーは袋のひとつをそっと口にくわえる。「そのままこっちへ」。私はそう言って、車椅子をレジへ動かしていく。雌犬はついてくる。「立って」。フィリーは前足をレジのカウンターにかけて、立ち上がる。「渡して」。犬は笑顔の店員に袋を渡す。店員はレジを鳴らして売り上げを記録すると、袋をフィリーに返す。「おりて」。フィリーは袋の端をそっとくわえたまま、前足を床に戻し、私のわきに立つ。「膝にのせて」。私は命令する。雌犬はさっと前足を私の膝にかけて、袋をそこへのせる。私は犬をかき抱く。私はクレジットカードを渡し、犬はそれを店員に渡して、勘定がすむ。 私はくたくたになる。ひと休みしているところへ、ふたりの子どもをつれた夫婦が近づいてくる。「すみません。フィリーをかわいがる前に、私にことわりを言ってくださいね」。私はなんとか笑顔をつくりながら、彼らに告げる。「この犬はペットじゃないんです。サービス・ドッグなんですから」夫婦も子どもも、思わず立ち止まり、フィリーをまじまじと見つめる。こういう犬に命令を出すのは、飼い主に限定しないといけない。さもないと、犬が子どもとふざけあっていきなり走り出すかもしれない。そんなことになったら、車椅子に乗っている人間はどうなるというのだ? 以上が、私のサービス・ドッグ体験のいくつもあるハイライトのほんの一こまである。私は障害者ではなく、ただのジャーナリストなのだ。サービス・ドッグについて原稿を書くために、わざわざ車椅子に乗り込んだのである。フィリーのような犬は、車椅子に乗る人たちの手助けをする。こういう犬は数千頭いて、アメリカの38の州で活躍している。 目の見えない人を助ける「シーイング・アイ・ドッグ」のアイデアは第一次大戦後ドイツで生まれたが、障害者を助ける犬のアイデアはアメリカで生まれた。ボニータ・バーギンという学校教師がそのアイデアを思いついた。 バーギンは犬の飼育所を作った。自分で犬を飼育し、訓練しはじめた。それから1975年、カリフォルニアのサンタ・ローザに「サービス・ドッグでふつうの生活を(CCI)」を設立したのである。 試行錯誤を経て、バーギンはどういう犬がCCIの目指す目的に向いているか、少しずつさぐり出していった。ゴールデン・リトリーヴァとラブラドー、またはその混血種が最適であることがわかった。CCIの訓練責任者は、犬の理想的な性質をやわらかい粘土にたとえている。彼はこんな具合に説明した。「こちらがほしい犬は、しっかりはしているけど、同時にこちらの言うことを聞くタイプ。あれこれ注文の多い目つきをするのでなく、どうしてほしいの? と、こちらの意向をうかがう目つきをする犬ですね」。 サンタ・ローザはまたスヌーピーの生みの親、チャールズ・シュルツの住む土地でもあった。スヌーピー自身はぐうたらで、とても身体障害者たちのお役には立てないが、シュルツ夫妻は違った。彼らは、犬とその主人となる人たち双方を訓練するための費用として、CCIに1万ドルの小切手を切ってくれたばかりか、50万ドル以上の寄付を集めてくれたのである。 長い試練の時期を経て、CCIは現在スタッフ65名、年間予算200万ドル強の組織に成長した。CCIの成功の秘訣は何か? 何といってもバーギンとスタッフが案出した特別の訓練カリキュラムが、最大の秘訣だろう。サービス・ドッグ候補の子犬が生まれると、飼育にかけてはヴェテランのヴォランティアがそれを育て、基本的なマナーと命令を教えこむ。犬が生後17ヶ月になると、CCIのトレーナーが8ヶ月にわたって総仕上げの強化訓練をほどこす。訓練のシステムには60に及ぶ別々の命令が含まれている。まず単純な動作を教えてから、それらを組み合わせた難しい動作に移る。 「立って」と「揺すって」、この2つの動作をマスターすると、これらを組み合わせて「スイッチ消して」の動作を教えるのだ。最初に紹介した、フィリーがジェリービーンを買ったときの動作は、それまでに教えこまれていた7つの動作を組み合わせたものだった。 60の命令、それらを組み合わせた複雑な命令をマスターすれば、犬たちは窓の鎧戸のあげおろし、車椅子の錠の開閉、ドアや引き出しの開け閉め、差し込み便器の運搬などができるようになる。 目下のところ、みごとサービス・ドッグの条件をみたすのは、3頭に1頭だ。若い犬にとって、サービス・ドッグになることは、ほとんど残酷物語である。(1頭きたえあげるための費用が1万ドルをこえるのも無理はない。)無事パスした犬、それも一番りこうな犬ですら、まちがいはおかす。典型的な例は、あるサービス・ドッグが最初のトレーナーに偶然出くわしたとき、興奮のあまり相手に駆け寄ろうとすることだ。その犬が車椅子につながれていた場合、これはまことに危険なことになる。主人は車椅子をコントロールできなくなるかもしれないのだ。 オレゴンという名のちぢれっ毛の犬が、自分を育ててくれたCCIの支部長を偶然見かけたとき、ミスをおかした。オレゴンは支部長に歩み寄り、彼女の手に鼻面を押しつけたのだ。しかし支部長はあえてオレゴンに声をかけなかった。それどころか、目もくれず、相手を元気づけるようなことは何ひとつしなかった。オレゴンは大いに面食らった。すかさず主人が命令した。「オレゴン、だめ! こっちへおいで」。オレゴンはそれでもためらったが、結局主人のもとへ戻った。「支部長を見ると」と、主人がそのときのことを話してくれた。「頬を涙が一筋流れ落ちてましたよ」。 CCIが教える相手は犬だけではない。犬たちの主人となるはずの人間もそうなのだ。サービス・ドッグの主人になる資格を得るためには、彼らもまたいくつかの業を身につけないといけない。まず待機期間が2年、その間に何度か面接を受けるのだが、これらすべてをクリアしたあと相当きつい特訓となる。1年に3度、各3週間開かれる強化合宿が待ちかまえている。 この特訓には、毎年75ないし80名の人間、そして同数の犬が参加させられ、CCIの支部トレーニング・センターで選抜試験を受ける。人間のほうは、ほぼ15人に1人の割で、身体上および情緒面の理由で落とされる。それでも最初の試験に落ちた者も再試験に挑む者が多く、2度目にはねられるのはさすがにこれまではほんの一握りだった。私が参加した特訓では、全員がパスした。 犬と人間がおたがいしっくりいくようになったとき、どうなると思う? 私の特訓が終わったとき、合格したての人物の一人が忘れがたい台詞を吐いた。選抜条件のすべてをみたし、自分のコンパニオンになってくれた犬をいとおしげに見やりながら、相手に向かって、彼はこう言ったのだ。「これからは、二人三脚だね」。