★☆★☆ ⇒《話題!!》
「教育哲学」または「教育とユーモア」について ・・櫻井 佳樹先生に聞く・・

――最近の話題を教えて下さい。
さくらい:昨年12月に教員免許状更新講習の選択講座として「教育とユーモア」
と題する講座を開きましたが、たくさんの教員の方々が受講されました。これは大
変皮肉なことじゃないですか。教職は激務であり、多忙である。この上まだ免許更
新という研修を受けなければならないのか。そんな中で「ユーモア」と聞くと、ち
ょっと救われる気がする。そんな動機で受講する人が多かったのではないでしょう
か。

――まさに、ユーモアですね。で、ユーモアとは何ですか。
さくらい:私の考えではユーモアとは、「精神的ゆとり」です。ドイツの諺に「H
umorist,wenn man trotzdem lacht」(ユーモア
とは、にもかかわらず笑うことである)というものがあります。デーケンは『生と
死の教育』(2001)の中で、「私はいま、苦しんでいる。だが、それにもかか
わらず、相手に対する思いやりとして笑顔を示す」ことである、と述べています。
最悪の事態にもかかわらず、それを冷静に受け止め、自らの悲劇をさえ、冷静に観
察する。そこに喜劇(笑い)が生まれるということです。したがって、ユーモアあ
る態度とは哲学的態度に似ています。このあたりで「教育とユーモア」とは、「教
育哲学」と類似している、と種明かしすると、受講生は「しまった、騙された」と
感じるのです(笑)。

――騙し討ちですね。
さくらい:そうですね。教育は「騙し、騙され」ですから(笑)。しかし、面白か
ったのは、中学校の先生方が受講生の多数を占めており、そして実際に多くの先生
方がとっても面白い(ユーモア精神に富んでいる)ことでした。

――それは意外ですね。
さくらい:そうなんです。なんとなく怖いイメージがありますからね。しかし、中
学校の先生方が異口同音におっしゃるのは、「中学生に正論は通用しない」という
ことです。何をなすべきかを理解していても、その通りにすることは、「かっこわ
るい」という意識をもった中学生と丁々発止で闘っているうちに、知らず知らずの
うちにユーモア力を高めているということです。教育という現象は、単なる理論の
伝達や応用の場ではありません。むしろ偶然性や意外性などの「ズレ」を含んだ現
象です。この「ズレ」を「ズレ」として楽しむことが「ユーモア精神」であり、ま
たそうした教育のおもしろさ、奥深さを哲学的に研究するのが、「教育哲学」です。


――おもしろそうですね。
さくらい:私は教育をもっと柔軟に捉え直したいと思っているのですよ。教育は学
校に限らず、日常生活の様々な場面に隠されています。私たちがあらゆる現象をそ
のような視座で眺めれば、「教育」が見えてくるわけです。

――というと。
さくらい:お正月に高松から徳島方面の高速道路を利用したのですが、話題になっ
た高速道路の渋滞について考えました。二車線から一車線に車線が減少するところ
で渋滞するのですが、それを観察していて面白いことに気がつきました。そこには
我慢強く行列を作る車もいれば、出し抜いて割り込もうとする車もいる。またそれ
を入れてあげる鷹揚さを示す車もいます。人間の真面目さと、ずる賢さと優しさが
拮抗している人間社会の縮図を「観察」することができたのです。
 
――確かに思い当たるところがありますね。
さくらい:しかし渋滞が解消されると、もはや車は人間らしさを喪失して、走る機
械に変貌してしまうのです。人間であることと「時間」は大きく関係しているので
すね。教育哲学の方法は、テクストの「理解」や「解釈」ですが、そのためにもテ
クストに結晶化される以前の現象をよく観察することが大事だと感じました。さら
には、単に対象をものとして見るだけでなく、内側から見ることも大切だと思いま
す。なにせ私たちの対象は人間であり、子どもですから。

――なるほど。本日はありがとうございました。
(さくらい よしき:教育学部教授 学校教育講座・教育哲学)

香川大学メールマガジン  第134号   2010年2月4日