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1.日本史こぼれ話(1)「西浜の梛(なぎ)の木」・・・・・・・・田中 健二
 
 最近、築城当時の高松城の周辺地形についての論文をまとめた。とくに関心があ
ったのは、城下西方の地域の地形復元である。この地域は、北部は西浜村、南部は
宮脇村と呼ばれ田畑が広がっていた。本学付近は西浜村に含まれ正門前を南北に通
る道が城下町との境界線である。
 
 西浜村については、讃岐生まれの軍学者香西成資が著した『南海通記』(171
8年完成)に興味深い話が見える。成資は寛永9年(1632)の生まれである。
彼が実際に見た光景として、本学の西方に位置する石清尾山の北麓まで満潮のとき
は潮が満ち、山の側に上って行き来し、干潮のときは干潟を歩いていた。「西浜梛
ノ木」付近より石清尾山北麓の干潟まで、満潮のときは山の麓まで全体が広い海と
なり、潮位の高い時期には石清尾八幡宮の下まで潮が上っていたという。

 この西浜の「梛ノ木」は、高松藩士小神野与兵衛が宝暦9年(1759)に著した
「小神野筆帖(盛衰記)」(松浦文庫、瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)にも初代高松藩主
松平頼重の時代の話として見える。それによれば、本学の北方扇町1丁目の愛宕神
社の脇に「讃州一番のなきの木」があり、また、同社の西は潟浜となっていて波が
打ち寄せていたという。

 この梛の木とはどのような木なのかが気にかかった。残念ながら西浜のそれは昭
和の初めにはすでに枯死していた。

 インターネットで検索し、梛の木がマキ科の常緑高木であること、熊野三山のう
ち熊野速玉大社(新宮)の御神木として現存することを知った。ユネスコの世界遺
産熊野古道にも関心があったので、バスツアーに参加し休日に出かけてみた。その
木は相当の大樹で、鎌倉初期の歌人藤原定家が「千早振る熊野の宮のなぎの葉を変
わらぬ千代のためしにぞ折る」と詠んでいた。

 梛の木はその名から海のなぎにつなげて交通安全の、ひいては家内安全の、また、
葉がちぎれにくいことから縁結びのお守りとされている。
 このとき同行した妻が、いつかあの木とそっくりな木を町内で見たことがあると
いうので見に行った。何度も初詣に行ったことのある神社の境内にその木はそびえ
ていた。意外に気付かないものである。
(たなか けんじ、教育学部教授、日本史学)
 
   香川大学メールマガジン  第95号   2008年4月24日

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2.日本史こぼれ話(2) N10゜Eの傾きを持つ町−高松・・・・田中 健二

 本学教育学部正門(北門)に面した通りを東へ向かうとその先は国道11号線へ
つながり市街地を横断する。この東西の通りと県庁通り、丸亀町通り、フェリー通
り、塩屋町通りはほぼ直交する。高松市街図を見ると、多くの街路が同じようなほ
ぼ直交する交差点を持つことがわかる。市街地の道路にみられるこの特徴は近代に
なって生じたものではない。高松城下町の通りは、初めから東西・南北直交型の碁
盤目状になるよう計画的に建設されたものであり、城下町は、ほぼN10゜Eすな
わち北東に10度の傾きを持つ南北の通りとそれに直交する通りとで区画されてい
た。本学名誉教授の坂口良昭先生は、『高松百年史』(1988年)において、高
松城下町の通りが、南北の通りは北東に10度傾き、東西のそれは東南に10度偏
っていること、この傾きが高松平野の条里制の遺構である道路割りや水路割りの方
向と完全に一致していることを指摘している。

 現在の高松市内の基本道路のうちこの特徴を持たないのは、中央通りと瀬戸大橋
通りであり、いずれも近代になって計画された新しい道路である。
 それでは、高松平野の条里区画はなぜ南北方向において北東に10度の傾きを持
つのであろうか。『香川県史1原始・古代』(1988年)には、讃岐国の条里の
基準線は古代の官道・南海道であり、高松平野においての南海道は、三木町白山の
南麓とかつての高松市と国分寺町の境界に位置する伽藍山・六つ目山間の峠とを結
んで建設されたとの指摘が見える。

 最近の発掘調査の成果からも、条里区画は南海道の道幅を避けて両側に施工され
ていることが確認できる。やはり「初めに道ありき」である。官道は幹線道路とし
ての必要から2点間を極力直線で結んで建設されたから、条里の基準線に適してい
たのである。

 問題は、自然のランドマークを用いて建設された高松平野の南海道が東西方向に
おいて東南に10度偏っていた点にある。これと平行する東西方向の条里の区画線
は東南に10度偏り、直交する南北方向のそれは北東に10度傾くことになる。そ
の結果、この区画線に沿って、あるいは延長して設けられた道路や水路も同じ傾き
を持つことになったのである。
(たなか けんじ 教育学部教授 日本史学)
 
     香川大学メールマガジン  第96号   2008年5月8日

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3.日本史こぼれ話(3) 犬も朋輩(ほうばい)・・・・・・・・・・田中 健二

 先日、川柳をとおして、江戸時代の庶民の知られざる風俗や文化を説いた渡辺信
一郎氏の『江戸の知られざる風俗−川柳で読む江戸文化』(ちくま新書 2001
年)を読んでいたところ、表題の「犬も朋輩」を詠んだ川柳があることを知った。
この「犬も朋輩」とは、「犬も朋輩、鷹も朋輩」という俗間のことわざであって、
その前半部だけでも用いられる。渡辺氏によれば、大名などが、狩猟用の犬や鷹を
飼育していたところから派生した言葉である。身分や任務に多少の高下はあっても、
同じ主人に使われているので、同僚であることには違いはないという意味である。

 同じように犬をたとえに使って身分を説明した事例が、鎌倉時代の百科事典『塵
袋(ちりぶくろ)』(東洋文庫 2004年)に見える。関係箇所を現代語に直して
次に示す。なお、この辞典は項目ごとのQ&Aで書かれている。

 あいつ、こいつなどというがどのような意味なのか。また、小児の額に犬の1文
字を書いて、あいつを書くという。犬の字はあいつと読むのか。

 あいつというのは彼の奴(あのやっこ)、こいつというのは此の奴(このやっこ
)である。人でないものをこのようにいう慣わしであるから、犬になぞらえて小児
の額に犬という字を書くのだ。

 この問答から、中世においては、奴(奴隷)・犬・小児は人とはみなされていな
かったことがわかる。歴史学者の保立道久氏はその理由をいずれも人に扶養される
存在である点に求めた。もちろんこの場合の人は奴隷にとっては主人、犬にとって
は飼い主、小児にとっては保護者の意味である。

 民俗学者柳田國男は?阿也都古(あやつこ)考?で、九州や東北で宮参りのとき赤ち
ゃんの額に犬の字や×印を書き、?ヤスコ・ヤツコ?と呼ぶ由来を、12世紀初めよ
り貴族の日記に見える赤ちゃんの額に犬の字を書き?あやつこ?と呼ぶ習慣に求めて
いる。この犬の字や×印は宮参りに際しての魔よけのおまじないである。つまり、
この子は人ではないから取り付かないようにと魔物をだますのが目的である。

 動物のなかで犬は昔も今も人間にとってもっとも身近な存在であるから、このよ
うに様々なたとえに用いられた。
(たなか けんじ、教育学部教授、日本史学)

   香川大学メールマガジン  第97号   2008年5月22日
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