★☆★☆ ⇒《研究室の小窓》
2.学校教育雑感 〜教師の愚痴〜 ――――――――――――――――大西孝司

 学校教育や子どもをめぐる様々な議論が沸き起こるたびに、教員の意識改革が必
要、教員の資質向上が不可欠と言われ続けてきました。いま急速に進められている
教育改革では、むしろ、その要求が強まっていると言っても過言ではありません。
確かに、教師に課せられた使命の大きさを否定することはできませんが、教師を責
めたり負担を強いたりを繰り返していても、実りある成果が期待できるとも思えま
せん。教師の仕事は、教えることだと考えられています。子どもが分かるように教
えなければならない。この呪縛からなかなか解き放たれず、強迫観念を抱き続ける
教師が多いように思われます。本当に、教師が教えれば、子どもは学び、理解でき
るようになるのでしょうか。例えば、中学校で学ぶ数学の内容を、全員の生徒に理
解させることが果たして可能なのでしょうか。あくまでも、学ぶのは子どもです。
学びの当事者である子どもに視点を当てた議論を抜きにして、教師の力量ばかりを
取り上げても、思ったほどの効果はないと思います。

 最近、郵政民営化や年金制度改革が話題になっていますが、自分の経験や知識を
生かし、的確な判断や意見を述べることができる人は、それほど多くないでしょう。
ところが、学校や教師のことが話題にのぼると、ほとんどの人が一言居士になって
しまいます。それは、だれもが学校に通った経験をもち、そこで得た何らかの経験
と知識を有しているからです。言い換えれば、学校教育に関しては、全員が教育評
論家になれるという特異性があります。しかも、その多くは批判的な立場をとりま
す。何か子どもにかかわる問題が出てくると、学校はどうなっているのか、教師は
何をしているのかといった点に議論が集中します。教師のほとんどは、あまり手の
かからない模範的な生徒として学校生活を送ってきた人たちです。根がまじめです
から、批判されれば、まったく自分に否がないとは言い切れない、反省すべき点は
確かにあると考えてしまうわけです。そうなると、かえって身動きがとれなくなっ
てしまいます。すると、ますます批判が高まり、負の連鎖ともいうべき悪循環に陥
ってしまいます。その結果、できそうにないことであっても、全力で何とかしよう
と無理を重ねます。やがて、うまくいかなくなり、その責任を一身に背負い込んで
しまいます。さらに、周囲から指導力がないと見られているのではないか、他の教
師なら、うまくできたのではないかという不安を抱きながら、徐々に自信を失い、
精神的なバランスも崩してしまうのです。

 学校には多くの生徒が集まっています。ですから、教師には、できるだけ生徒全
体のことを考え、判断し、行動しようとする習慣が身についています。価値判断の
基準も、そこに置かれます。しかし、それぞれの生徒は違った価値観や個性をもっ
ていますから、教師と波長が合う生徒もいれば、そうでない生徒もいます。教師の
言動に納得する生徒もいれば、納得できない生徒がいるのも当然のことです。40
人近くの生徒が満足できる結果を出すことは至難の業だと言えます。だから、教師
は、自分の信念に基づいて、最良だと思える方法を選択するしかないのです。しか
し、子どもや親の見方は、それとは異なっています。対象となる子どもは1人なの
です。自分や子どもにとって最善の方法でなければ、それは教師の判断が誤ってい
ると考えることになります。この溝がなかなか埋まりません。こちらを立てればあ
ちらが立たず、そうした状況に追い込まれることが多々あり、個性重視の教育が叫
ばれるほど、教師の苦悩は深まっていくのです。
(おおにしたかし、教育学部助教授、教育科学)


   香川大学メールマガジン  第38号   2005年7月21日

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3.学校教育雑感 〜「木曜会」のこと〜――――――――――――――大西孝司

 今、私の手元には『比例と反比例』という小冊子の原稿があります。これを作っ
ているのが「木曜会」です。この会は、昭和29年に附坂中教官であった藤森徹先
生の呼びかけに賛同した中学校の数学教師によって結成された自主的な勉強会だと
聞かされています。以来、メンバーの入れ替わりはありますが、今日まで半世紀の
間、絶えることなく続けられてきた県内一の歴史をもつ勉強会だと思います。

 私が、この会に初めて参加したのは昭和52年です。まず、最初に度肝を抜かれ
たのが時間のことです。会は午後7時に始まったのですが、なかなか終わる気配が
ありません。やっと終了したのは、日付変更線を越えてしばらくしてのことでした。
10分程度の休憩をはさんで5時間あまり、淡々と教材や指導法について議論、検
討しあうのです。この様子は30年経った今でも変わりありません。もう一つ、驚
かされたことは、参加されている先生方の‘専門的な知識の豊かさ’です。新卒の
私よりも数学に対する知識が豊富だと感心させられましたし、そうでなければ生徒
に数学を教えることなどできないのだと痛感させられた記憶が甦ってきます。私が
教員養成系学部における教科の専門教育を疎かにしてはいけないと考える理由もこ
こにあります。教職に関する科目には、むしろ教員になってからの方が実感を伴っ
て理解できる内容もあります。しかし、専門科目は、そうはいきません。かつて私
と職場をともにした同僚の多くが、こうした考えをもっています。

 学校現場には、学ぼうとする意欲のある教員が多くいますし、自主的な勉強会も
たくさんあるはずです。しかし、高度な知識をもった指導者がいなければ、実のあ
る研修ができないことも、また事実です。こうした教師たちを支える環境や体制を
整えていくことこそ、大学が果たすべき大きな役割ではないかと考えています。
(おおにしたかし、教育学部助教授、教育科学)


   香川大学メールマガジン  第40号   2005年9月29日